心療内科関係者が小説を書いてみた。

 企画:あもう様 まとめ:杉浦 亜紀  -Psychosomatic Internal Medicine-
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木崎喜代子の場合 #12
<当ブログ企画作品>
前回のお話
<こちらより転載>

 変化が訪れたのは、夏だった。唐突に冷蔵庫に貼り紙がされたのだ。

『低脂肪乳が欲しい』
『自分用に冷凍庫が届くから、玄関にそのまま置いておいて』

 たったそれだけの文言を繰り返し読み、急ぐ必要はないのに喜代子はすぐさま店まで買いに走った。宝物のように抱えた紙パックは、2日でなくなり、ネットスーパーで欠かさず買い置くようにした。
 件の冷凍庫は翌日届き、その日の晩には引き上げられていた。そろそろ、季節柄冷たいものも食べたいだろう。メインの冷凍庫に美味しそうなアイスクリームも用意したが、それは手をつけられることはなかった。
 何かしら、正太郎が活動しているのが嬉しかった。もっと喜代子を喜ばせたのは、食事を毎日食べてくれるようになったことだ。悟られない程度に量も増やしたが、それでも食べている。これはチャンスだと、改めてメモを貼った。

『何か食べたいものはない?』

 予想外に、返事はすぐにあった。

『サラダチキンとか、鳥の胸肉の料理』

「もう嬉しくって嬉しくって……」
 次の診察が、いい意味で待ち遠しかった。喜代子の腰痛は一進一退で、けれども強く痛むことはなく経過していた。「自分自身に対するケアを、大事にしている証拠だ」と三野原は言った。
「それは良かった……」
 と言いながら三野原がややもの言いたげな顔をしたのを、喜代子は見過ごさなかった。
「……何か、気をつけておいたほうがいいことはありますか?」
「いえ、活気が出てこられたのは良かったなと思って。息子さん、もともと何かスポーツはしていましたか?」
「小学生の頃から少年野球を……中学以降はバレーボールをしていました」
「木崎さんは?」
「私は特に……」
 結局、三野原は喜代子への質問に話を移し、その日の診察は終わった。

 お盆に夫は戻ってこなかった。せっかく元気になっている正太郎の気分を落とすことだけは避けたかった喜代子にとっては、申し訳ないが好都合だった。
 酷暑もあってか、正太郎の洗濯物もぐっと増え、やや身体に負担がかかるようになった。特に彼女が起きる頃に、夜にはなかった薄手のTシャツや下着といった洗濯物が持ち込まれた。ついには、見覚えのない新しい服や靴まで増えた。それは小躍りしたくなるような喜びだったが、それについて尋ねることはぐっと我慢した。
 正太郎が欲しがる肉や、野菜を中心としたメニューは作り甲斐もあった。一緒に食べる喜代子の調子もよくなるようで、便秘も解消した。良いことづくめではあったが、やはり正太郎が彼女の目の前に現れることはなかった。
 それでもいいと思いながら夏が終わり、次の診察が巡ってきた。

 診察待ちにスマホを見る習慣もついた。明日届けてもらうネットスーパーやニュースなど、ここに初めて来た頃とは喜代子の生活も変わった。今となっては、よくガラケーで事が足りていたとおかしくなるくらいだ。
 いつも通り地域のニュースのページを開く。すぐ近くで空き巣被害の事件があったようだった。我が家は成人男性がいるが、とはいえ正太郎が屈強な男性に敵うとも思えない。不安を振り切るように次の記事を見ると、彼女が思いもつかないような事件が起こっていた。
「うちの子、入れ替わっていたらどうしましょう……」
「……まずは、何があったかお尋ねしてもいいですか?」
 突拍子もない喜代子の発言に対して、三野原は冷静に質問を返した。
 喜代子が見たのは、以下のような事件だった。自宅で亡くなった高齢男性を疎遠の息子が引き取りに行ったら、その男性は父親ではなかった。調べていくと、父親はその男性と共同生活をしており、何年も前からその男性が父に成り代わっていたようだというのだ。
「正太郎も、もう2年顔を合わせていません……別人になったから、ご飯を食べてるんじゃないかと思って……」
「木崎さん、ご心配なのはわかりますが、限りなく可能性は低い話です」
「顔を見せてはくれないでしょうか……」
「頼み方にもよるでしょうが、その理由で『顔を見せて』は難しいかもしれません……」
「息子じゃなかったらどうしましょう……」
 途方に暮れた様子の喜代子に対して、さすがの三野原も二の句が継げないようだった。ようやく絞り出すように、「部屋から出られるのを、こっそり後ろから見るとか……電話とか……」と提案してきた。
「私、それでわかるでしょうか……」
「…………」
 ついに言葉もなくなった三野原を前に、喜代子の腰はまた痛むようだった。

 結局、「正太郎である」ということを確認する良い方法も思いつけないまま、秋は深まっていった。こうなると、喜代子の不安も収まらない。不安だけならよかったが、徐々に腰痛もつらくなった。

「思わぬ形ですけど、木崎さんの痛みはやっぱり不安と連動するって、確認がとれましたね」
 ハハハと三野原は笑ったが、彼女にとっては笑い話ではない。食事を作るのも、正太郎ではない得体のしれない誰かに餌をやっているのではという疑念が拭えず、以前ほど身が入らなくなってきた。
「もうこうなったら、不意打ちで顔を見るしかないでしょう」
 まずは、正太郎の生活パターンを知る必要があった。

 作戦は11月半ば、作戦は決行された。わざと玄関の灯りを消さずにおき、喜代子は玄関脇のトイレに潜んだ。午前3時、階段を下りてくる足音がした。この時間になると、大きな荷物を持って「正太郎」は出かけていく。新しい靴のサイズは以前の正太郎と同じものであることは、確認している。
 玄関にたどり着く気配がしたその瞬間、意を決して喜代子はトイレから飛び出した。

「……間違いなく、息子でした」
 12月初旬、満面の笑みを浮かべて診察室にやってきた彼女に、やや呆れたような口調で三野原は「でしょうね」と頷き返した。冬が始まったというのに痛みはかなり和らぎ、良い流れになるはずだった。

『12月30日に、戻ります』

 夫からメールが届くまでは。


次のお話
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