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2025.02.09 Sunday
木崎喜代子の場合 #13
<当ブログ企画作品>
前回のお話 <こちらより転載> どうしよう。夫が帰ってくる。 三野原は、「木崎さんの腰痛は不安と連動している」と言った。その言葉通りに喜代子の腰は日に日に痛み、痛みに蹲ることも増えた。年明けすぐに入れていた予約を早めようと病院に連絡したが、年の瀬は混みあうために年内への変更は難しいという。診察を希望するならば、待ち時間を覚悟で受診をしてほしいと案内があった。 この体調で待てるだろうか……と思いはしたが、夫を迎えるにあたってどうすればいいのか、どうしても三野原の意見が聞きたくなった。 そういった経緯で、12月25日の昼下がり、喜代子は病院の待合室にいた。玄関ホールにはツリーや電飾が飾られ、すっかりクリスマス仕様になっている。ここに来るまで今日がクリスマスであることなど、すっかり忘れていた。祝う余裕など、今の喜代子にはまるでなかった。 そこで、意外な場所から声がかかった。 「お久しぶりね、覚えているかしら」 喜代子の左手から若い看護師に押されてやってきた車椅子の主は、いつぞやタクシー乗り場で行き会った女性だった。あの時よりぐっと痩せて酸素のチューブをつけているが、眼の強さに覚えがあった。 「覚えています、タクシー乗り場で……」 「よっぽどご縁があるのね」 湿った咳をいくつかして、失礼、と婦人はマスクの口元をハンカチで拭った。 「思ったより生きちゃってね。でも、そろそろ死ねそうだから入院してるの」 相変わらず直截な婦人の台詞に、看護師も苦笑いだ。 「お会いできて良かった。実はあの後、思い出の場所に行って気持ちが整理できたんです……勧めていただいて有難うございました」 「あら、素直な人ね……」 マスクで口元は見えないが、目を細めた婦人は微笑んだようだった。 「何度も声をかけてごめんなさい。貴女、私の身内にそっくりなのよ、だから、」 そこからいくつか咳きこみ、婦人は「遺言だと思って聞いて」と深みのある声で言った。 「我慢しすぎないこと。行きたい場所には行くこと。私は今から、人生最後のクリスマスツリーを見てくるわ」 「有難うございます……お気をつけて」 「貴女こそ、メリークリスマス」 「メリークリスマス」 祝いの言葉を交わし、婦人は去っていった。さっきまでぼんやりしていたツリーが、婦人の去り際には喜代子の目に鮮やかに映った。 「おや、戻ってこられますか……」 待って待って、ようやく呼ばれた診察室で、事情を聞いた三野原はあまり気のない様子だった。 「今、木崎さんは何が一番心配ですか?」 「それは……夫が帰ってくることです」 「そうすると何が起こりそうです?」 「息子の調子が悪くなります」 「どうして?」 いつもより端的な質問を返してくる三野原に、圧迫感を感じる。それでも、答えなければいけなかった。 「夫が、息子を傷つけるようなことをするからです」 「……具体的には?」 「『いつまで部屋にいるつもりか』とかそういうことを……」 「息子さんに言う?」 「息子には言いません。でも、私には言います……せっかく私とあの子とで落ち着いていた生活を乱されたくないんです」 「困っているのは、『それ』ですよね」 三野原の口調に、いつもよりも余白がない。 「だったら、ご主人にそう言って、『今ようやく息子の調子が良くなってきたから、帰ってこないでほしい』って、伝えるのはどうですか?」 「言えません!」 「どうして?」 どうして? この医者は何を言っているのか。喜代子は明らかに苛立っている自分を感じた。 「夫の家です。だから、帰ってくるななんて、言えません」 「じゃあ、どうしましょう? 息子さんに『お父さんが帰ってくる』って伝えましたか?」 「それを言ったら、あの子の調子が悪くなるかもしれないじゃないですか」 「木崎さん、言おうが言うまいがご主人は年末に帰ってくるんですよね。だったら、息子さんに心の準備をさせてあげるほうがいいんじゃないですか? 息子さんも木崎さんと同じく、どうしたらいいのか、自分の主治医と相談したいかもしれませんし」 考えの外にあった台詞に、言葉を失った。そうだ、正太郎も病院に通っているのに。 「……病院って、いつまで空いてますか?」 「カレンダー通りなら、今週いっぱいでしょうから急いだ方が」 喜代子の次の行動は決まった。一刻も早く、家に帰って正太郎に報告しないといけない。その日は、いつも以上に家路を急いだ。 けれど、喜代子を待っていたのは、思いもつかない光景だった。テーブルの上、メモが残されていた。 『メリークリスマス。 友達の家に行くことにしたので、しばらく帰りません 正太郎』 メモの横には、『母さんへ』と付箋のついた包みが置かれていた。開けてみると、それは若草色のハンカチで小さく柴犬が刺繍されていた。メモとハンカチを見比べ、もう一度メモを見つめる。 冷えたダイニングに立ち尽くし、しばらくその場から動くことができなかった。 次のお話 |
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