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2025.02.13 Thursday
木崎喜代子の場合 #14
<当ブログ企画作品>
前回のお話 <こちらより転載> 「わ、4時回ってるよ」 元旦の救急外来は、ようやく静けさを取り戻しつつあった。朝から絶え間なく救急車が訪れ、連絡のあったウォークイン患者、更には飛び込みの患者までやってきて、千客万来の様相だ。 「もういいよ、今日はお腹いっぱい」 形成外科の園田は、先ほど処置から戻ってきた。患者が立て続き、タフが売りの彼女もさすがに疲れの色を隠せない。 「三野原がいるからだ」 「俺?」 「よくわからんのが来る」 憮然とした園田の呟きに、看護師の伊沢が吹き出した。 「『ヤギに噛まれた』と『ヒツジに激突されて、坂を転げ落ちた』が一緒に来るか?」 「どっちも軽傷で良かったね……」 「正月からヤギ咬傷とか調べる身になってよ! ここ牧場の近所じゃないんよ?」 「私、看護師20年やってるけど初めてだわ、ヤギ……」 しみじみと伊沢が呟き、既に本日の振り返りムードが漂っていた。そこに、 「もういいってぇー!」 園田のPHSが鳴った。言葉に反して、すばやく応答した彼女に、三野原は労う意味を込めて頭を下げる。そのまま場を去ろうとしたところ、ガッと園田に白衣を掴まれた。 「50代男性……殴ったのは? あぁ、それで来るのはその2人ね。一緒に搬送でも大丈夫なの?」 引き留められた目的がわからず、訝しげに見つめ返すと、園田は「そっちは内科かもなのね? 内科担当がちょうど心療内科だわ、確認する」と救急隊への返事に混ぜて、理由を語った。 「50代男性、息子に顔殴られて鼻出血が止まらなくて来るんだけど、それ見てた奥さんが何でか腰が痛くて過換気起こして倒れてるから、内科も一緒に診てくれるかって」 「電話貸して……内科当直です」 園田から受け取ったPHSから救急隊がきびきびと挨拶を返す。 「50代女性です。そちらの心療内科かかりつけみたいなんですが、ご主人が殴られたのを見て過換気発作になられてます。意識はクリアです。痺れと腰の痛みを訴えてます」 「わかりました、そちらは内科でうけます」 横で聞いていた伊沢が、「救急車1台だけど、患者さんは2人。内科と外科1人ずつ来ますー」と事務方へ伝える声が聞こえた。 程なく救急車が到着し、顔面をタオルで押さえた男性と、ストレッチャーの女性が下りてきた。園田と一緒に救急隊を迎え入れる。 「お願いします。50代のご夫婦です。お名前は木崎浩實さんと、貴代子さん」 ストレッチャーの女性は、予想通り木崎喜代子だった。 くるしい、いたい、くるしい 腕は痺れて力が入らない。このままきっと死ぬのだ。誰かが遠くで話をしている。丸めた背を誰かが撫でてくれている。痛みで姿勢を変えることも出来ない。 「木崎さん、わかる? もう病院よ」 視界に、臙脂の服を着た女性が見えた。喜代子に断りを入れながら、脇に何かを挟み、胸にシールを貼りつけていく。 「ゆっくり息できるかな? ちょっと呼吸が早いみたい」 出来ればそうしたいが、痛みがつらくて息が吸えない。泣きたくないのに涙まで出てきた。 「いたい……」 「そっか、何処が痛いかな?」 「木崎さーん、こんにちはー」 続いて、濃紺の服が目に入った。覚えのある声に促されて目線を上げると、見慣れた顔がそこにあった。 「僕のこと、わかりますか?」 三野原がいた。何度も頷くと、彼も頷き返した。 「ご主人は外科担当が診てます。ここは病院だからゆっくり呼吸しましょうか」 「先生、何処か痛いみたいです」 「今日も痛むのは腰ですかね?」 いつから痛んだのか、他に痛む箇所はないか問われたが、腰に当てられた手で三野原も悟ったようだ。看護師にいくつか指示を出す。 「点滴をさせてください。必要なら痛み止めも使います」 「しび、しびれて」 「そうですね、今から診察します」 喜代子の目にライトを当て、手を握ったり伸ばしたりさせた。 「膝を立てられますか?」 恐る恐る足を動かしたが、腰に重い痛みはあるものの新たな激痛は走らなかった。 「ひとまず、30分くらい落ち着く薬を点滴をします。また様子を見に来ますね」 そういうと、三野原はカーテンの向こうへ消えた。 カルテ記載と指示出しを済ませると、三野原はするりと園田のいる処置室へ入り込んだ。患者――木崎浩實はそこにはおらず、画像検査へ向かったようだった。てきぱきと手を動かす彼女に声をかける。 「同乗してたの、うちの患者でした。お手数をかけます」 「鼻出血も止まってきてるし、確認するけど多分折れてもないわ」 残業せずに帰れそうだから許す、と寛大な言葉をもらう。 「ってかさ、何? DV息子なの?」 「まだ奥さんから聞けてないけど、やっぱり殴ったのは息子?」 「外から帰ってきた息子と言い争いになって、揉みあっているうちに鼻から左頬を殴られたと仰ってますが」 「おぉ……それは素晴らしい」 「何が?」 「息子さん、引きこもりのはずだから」 若干感動したような三野原の声音に、園田が顔を顰めた。 「……やっぱり、今日はよくわかんないわ」 滴々と薬液が落ちる様を眺める。呼吸はかなり楽になった。腰も、どうにかまっすぐ仰向けになれるくらいには痛みも和らいだ。うとうと眠ってしまいそうだが、目を閉じようとすると今日の出来事が瞼の裏に蘇った。 正太郎が、夫を殴った。 玄関先に蹲った夫の背中越しに見えた正太郎は、まるで知らない男のように見えた。けれど、呼吸が荒くなった喜代子を助け起こし、救急車を呼んでくれたのは、紛れもなく正太郎だった。 「木崎さん、失礼しますね」 カーテンがひらめき、三野原と看護師が入ってきた。 「落ち着きましたか?」 「先生……」 急激に涙が込み上げてきた。しゃくりあげる喜代子の背を、看護師が撫でる。 「何があったか、話せそうですか?」 涙声のまま、喜代子は話し出した。 12月30日の夕方、夫は帰ってきた。夕食が済んだ頃、夫は正太郎の所在を尋ねた。喜代子は重い口を開き、クリスマスに家を出たこと、友達の家にいるらしいが、メールに返事もないことを伝えた。夫は憤然と食卓を離れ、それきり喜代子と言葉を交わすこともなかった。 喜代子としては、衝突が避けられたことに安堵していた。しかし、その平穏も長くは続かなかった。大晦日、彼女の用意したお節をつまみ始めた夫はこう切り出した。 「彼奴が、仕事を辞めたことを知っているか」 思いもつかない夫の言葉に、目を見張る。「彼奴」が誰を指すかは言うまでもない。正太郎が仕事を辞めた? だとすればいつのことか、喜代子にはまったく予測もつかなかった。 「君にはわからないかもしれないが、大した勤務歴もない奴に2年も休職を許す会社は殆どない。彼奴も、夏くらいには退職になってるはずだ」 「私、何も……」 「僕も聞いてはいない。何も言わないのは彼奴の責任だ」 夫のために暖めていたはずの部屋が、耐え難く冷たく感じた。正太郎が職を失っていた。そんな大事なことすら、自分は気づいていなかった。もう口を開くことすら出来ず、喜代子は手元の雑煮椀に手を添えた。氷のように指先が凍えていた。 「家を出たのも、そういう理由だろう。もう僕が尻拭いをするつもりはない」 夫は良くも悪くもいつも通りに食事を済ませ、食卓を後にした。取り残された喜代子は、年を越せる気持ちにはなれなかった。 仕事を辞めていた? 正太郎が、私を騙した? 夏からクリスマスまでのあの穏やかな日々は、欺瞞だった? けれど、喜代子にはそうは思えなかった。本当にあの時期の正太郎は、幸せだったはずだ。 だから、新年の挨拶とともに彼女は息子にこうメールを送った。 『明けましておめでとう。今年が正太郎にとって良い年でありますように。 新しい環境で、あなたが幸せであることを祈っています』 「そのメールが既読になっただけでも、私にとっては今年の『大吉』だったんですけど、まさかあの子が帰ってきてくれて」 赴任先に戻ろうとした夫と、まさか鉢合わせするとは喜代子の遥か予想の外だった。玄関先で踵を返した正太郎に「また逃げるのか」と、夫が声を掛けたのが火種だった。振りかぶった拳と、玄関に蹲る夫、そして何の役にも立たずに倒れこんだ自分。 「私はやっぱり何の役にも立ちません……」 呻くように呟いた喜代子の背中に三野原は手を添え、宥めるようにとんとんと軽くタップした。 「お疲れさまでした……せっかくの機会ですから、ご主人のご様子が良ければ、僕がお話ししてもいいですか?」 少し迷いはしたが、彼女は頷いた。 <続く> |
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