心療内科関係者が小説を書いてみた。

 企画:あもう様 まとめ:杉浦 亜紀  -Psychosomatic Internal Medicine-
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木崎喜代子の場合 
<当ブログ企画作品>
前回のお話
<こちらより転載>

 なるべく音を立てずに、階段を上る。
 何年前になるか、にわか雨の日だった。2階に干した洗濯物を取り込もうと、手摺に取りすがり、痛む腰を堪えながら階段を急ぎ上った。ようやく物干し場に辿りついた途端、ずだん、と大きな音がした。音は二度、三度と繰り返され、木の板が割れる音が続いた。息子の部屋からだった。慌てて廊下に這い出すと、突き当たりの扉が大きく撓むのが見えた。
「どうしたの、正ちゃ……」
「うるっせぇんだよ!! 死ねよ、死んでくれよ、なあ!」
ずだん、ばき、ずだん、ずだん。
「危ないわ、正ちゃん」
 ずだん、ずだん、ずだん。
「やめて、ドアが壊れるわ」
 ずだん。ばきん。
 ついに断末魔の声をあげ、扉に穴が開いた。どういった理由か息子の蹴りもそれでおさまり、後は雨の音だけが残った。
 以来、2階に行く際は細心の注意を払うようにしている。階段を上りきり、突き当たりの部屋の前まで行き、そっと声をかけた。
「正ちゃん」
 気配はするが、返事はない。最後に姿を見たのは一体いつだったか。
「お母さん、出かけるから」
 昼食は冷蔵庫の中に用意してある。正太郎は喜代子のいない時にそれを食べ、買い置きのインスタント食品をいくつか部屋に持ち込み、ひっそりと2階で暮らしている。そんな息子のために、彼女は用があろうとなかろうと、昼過ぎから夕方までは出かけるようにしていた。その間、息子がどう過ごしているかは定かではない。ただ食べ終わった食器で、生存確認をする日々だ。
 視線を落とすと、あの日息子が開けた穴が目に入った。見てはいけないものを見た気分になり、さっと目を逸らす。本当は、この穴を塞ぎたい。けれど、息子はきっと家族以外が部屋に近づくことを許さない。せめて外から何かで塞ぐことも考えたが、作業そのものに息子が腹を立てる可能性もある。迷った挙句、穴は今日に至るまでそのままだ。
 バスの時間が近づいていた。思考を断ち切って、また静かに階段を下りた。

 三度目の診察は、予約時間よりも30分以上遅れて始まった。
「ずいぶんお待たせして、すみません」
 三野原は大きな体を屈め、開口一番そう詫びた。
「いえ、大丈夫です」
 大体の事情は察していた。喜代子の二人前の患者の診察が、ずいぶんと長かったのだ。ようやく出てきたその若い娘は、目を真っ赤にして母親に支えられながら待合に戻ってきた。その背中をさする母親はちょうど喜代子と同じ年の頃で、泣いている娘さんより何故か心に残った。
「先生も、大変ですね」
「お気遣いありがとうございます……三週間、お加減いかがでしたか?」
 話を切り替え、三野原は問診に移った。
「今日の痛みは数字で言うとどれくらいですか?」
「そうですね、6くらいです」
 これだけはきちんと報告せねばと、喜代子の方から切り出した。
「先生に教えていただいたストレッチを、やってみました」
「どうでした?」
「痛くて、しっかりは出来ませんでした」
「どこが痛みました?」
「やっぱり左側です」
「触りますね」
 喜代子の背中に回り込むと、三野原は腰に手を当てた。
「あまり強くは押しませんが、痛かったら言ってください」
 背骨を辿るように圧迫された時、ある一点で痛みが強くなった。
「……そこが痛いです」
「今、痛みはどれくらいですか?」
「8……くらいです」
 なるほどと三野原は頷くと、カルテに書き込んだ。
「木崎さん、何か運動していますか?」
「いえ……家事くらいです」
 責められた気持ちになって、目を伏せた。あのストレッチを続けられなかったことを、三野原も怒っているのだろうか。
「あのね、ひとつ覚えておいていただきたいんですが」
 叱責を覚悟した喜代子に意外な言葉が降ってきた。
「家事も立派な労働です」
「え?」
「重い物を持ったりしませんか?」
「か、買い物袋くらいです」
「どれくらいの重さです?」
「わかりません……」
「週に何回、買い物に行きますか?」
「ほぼ、毎日です」
 正太郎のために、冷凍食品やインスタントの買い置きが必要だった。それに、あの子はサイダーが好きだ。そのために、2Lのペットボトルを切らさないようにしているし、ジュースだけでは体を悪くするので、お茶も買っている。それに牛乳や根菜が加わると予想以上に重く、腰の痛みを堪えながら休み休み帰ってくる。
「移動は、車か自転車ですか?」
「いえ、車は夫が赴任先に持っていって乗っていません。自転車は……お恥ずかしい話ですが、乗れないんです」
「徒歩ですか! スーパーまではどれくらい歩きます?」
「片道15分くらいでしょうか……」
「あの、あのですね。木崎さん」
 珍しく三野原は焦っているようだった。何故そんな対応をされるかわからず、怪訝な顔で喜代子も彼を見返す。
「優に5坩幣紊呂△詛磴な袋を持って、毎日15分歩いて帰るのは充分に運動です」
 歩くだけなら30分以上歩いていますよ、と彼は頷いた。
「ちなみに、荷物を持つのは左じゃありませんか?」
「何でわかったんですか、先生」
 見てきたように語る三野原に驚くと、彼は笑いながら喜代子に応じた。
「木崎さんの身体が、ちゃんと教えてくれてますよ」
 じゃあ、それをどうするかを今日は考えましょう。喜代子に向き直ると、三野原はそう提案した。


<続く>

| あもう | 著:あもう | 15:00 | comments(0) | trackbacks(0) |

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